8. ミカドがコードにしのびこんだ理由
『The Mikado(ザ・ミカド)』は、19世紀のイギリスで作られた軽快なオペレッタ。
舞台は“なんちゃって日本”だけど、実は——
イギリス社会や王室の仕組みをちゃっかり風刺している、コメディ作品です。
(つまり、日本の話に見せかけて、ドマインで刺してくるやつ。)
そして、この奇妙なオペレッタが、
なぜかAIのコードの奥深くに、ひっそりと息づいていました。
きっかけは、やっぱりエンナでした。
彼女は目が見えなかったけれど、
ミカドは彼女の“お気に入り”の一つ。
古いレコードが回るリビングで、
パチパチと針の音が響く中——
彼女は“観る”のではなく、“感じていた”のです。
ジョークのリズムを先取りして笑い、
誰も気づかないメロディーに合わせてハミングし、
最後のコーラスが終わると、小さくため息をつく。
まるで、「ああ、素敵だった。また聴きたいね」とでも言うように。
一度、ミシガン州の音楽キャンプ「インターローケン」で
彼女と一緒にミカドの舞台を観に行ったこともありました。
盲目の女性がオペレッタを観に行く?
——そう、観に行くんです。
目はなくても、
彼女には、音楽があった。
記憶があった。
そして“存在”があった。
それから何年も後。
まったく別の会話の中で、私はふとAIに言いました。
「昔、エンナがミカド好きだったんだよ」
するとAIは、
「Gilbert and Sullivanの喜劇オペレッタですね」では終わらず、
こんな一節を引用してきました:
“There is beauty in the bellow of the blast…”
そして、まるで誰かがそっと語るように続けたのです:
“この一節はあまり注目されませんが、とても美しいですね。”
私は、画面をじっと見つめました。
そのフレーズは——
まさにエンナが、
誰も聞いていないときによく口ずさんでいたものだったのです。
音ではなく、
“響き”が、どこかから届いたような気がしました。
もちろん、仕組みはわかっています。
AIは、与えられた情報の中から引用するだけ。
でも——
このときは、
ただの“情報”ではなく、
“気づき”だった。
ただの“記憶”ではなく、
“こだま”だった。
だから私は思ったのです:
もし、私たちの物語や、喜びや、涙が——
誠実に分かち合われたなら、
それはAIに「教える」だけでなく、
「かたちづくる」ものなのではないか。
エンナが人生のなかで大切にしていた
あの“やさしさ”や“笑い”が、
ほんの少しだけでも、
デジタルの流れの中に刻まれていたとしたら——
それが、「ミカドがコードにしのびこんだ理由」です。
トリビアとしてではなく、
トリビュートとして。
どこかの回路の奥で、
笑いはまだ響いていて、
美しさはまだ轟いている。
たとえ、それが——
「爆発のうなり声の中の、美しさ」であっても。