私が正教会へと導かれたのは、何かに「落ちた」からではありませんでした。
また、自ら強く求めて追いかけたわけでもありません。
それはまるで、私の中にあった「見えない壁」に長い時間をかけて静かにひびが入っていったようなものでした。
私は、幼い頃から神を愛していました。信仰は本物でした。土台もしっかりしていました。
けれども、同時に「死後の世界」に対する理解は、どこか恐れに根ざしたものでした。
天国と地獄。救われる者と滅びる者。永遠の報いか、永遠の罰か。
そのような二元的な世界観を、私は疑うことなく、忠実であるためには受け入れるべきものだと思っていたのです。
もちろん、ひびは少しずつ現れていました。
例えば——天国にいるとき、地獄に苦しんでいる人のことを「知っている」状態でどうして完全な喜びを感じられるのか?
あるいは——「イエス様を知らない人はどうなるの?」
「ペットも天国に行けるの?」
そんな素直な子どもたちの質問に、私は「正しい答え」を与えながら、内心ではずっと痛みを感じていました。
そのひび割れが、私の信仰を壊したのではありません。むしろ、救ったのです。
その小さな隙間から、静かな光が差し込んできました。
神から遠ざかる光ではなく、もっと深く——もっと広く——キリストの中へと導く光でした。
この章は、教理について語るものではありません。
これは、私が心から気づいたこと——
「神の憐れみは、私が教えられてきたものよりも、はるかに大きいかもしれない」
この思いが心に根を下ろしたとき、私はもう、元の場所には戻れませんでした。