私が大学時代に通っていたのは、「改革派神学(Reformed Theology)」を強く支持するキリスト教系の大学でした。
その神学は、神の主権(sovereignty)を非常に論理的かつ体系的に説明するもので、「TULIP(チューリップ)」という5つの頭文字でよく表されていました。
当時の私は、こうした体系にある種の安心感を覚えていました。
秩序があり、論理的で、「これが神の計画です」と説明できることが、とても魅力的だったのです。
けれども、ある日——その体系の中にある影に気づき始めました。
神が「選ぶ」のは一部の人だけだとしたら、それ以外の人は?
最初から拒絶されるために造られたのか?
彼らの永遠の苦しみまでもが、神の栄光を表すというのか?
その疑問は、誰もあまり口にしませんでした。
むしろ、「誰一人救われるに値しないのだから、神が“誰か”を救ってくださるだけでも感謝すべきだ」という論調が主流でした。
私も、それを受け入れようとしました。でも心の奥で、何かがざわめいていました。
ある晩、友人とエアホッケーをしながら、「限定的贖い」について議論になりました。
つまり、キリストは「すべての人」のために死なれたのではなく、「選ばれた者たち」のためにだけ贖いを成し遂げた、という考え方です。
私はスティックを握ったまま、言葉にはしませんでしたが心の中で叫んでいました:
「でも……それって、“神は愛なり”という物語にしては小さすぎないか?」
その夜、私の中に何かが植えられました。
すぐに改革派を離れたわけではありません。でも私は、心の中で初めて問い始めたのです。
「神の憐れみは、私たちの神学的システムよりも大きいのでは?」
チューリップの花びらは、静かに、けれど確実に、落ち始めていました。