福岡に引っ越してきたとき、私はまだいろいろな神学的構造を抱えたままでした。
TULIP(改革派の五要点)、聖書の逐語的解釈、そして「神の義」と「人間の堕落」についての厳格な理解。
今思えば、私の信仰の多くは、どこか「議論のための信仰」になっていたように思います。
私は、誰かを議論で“やりこめる”こともできました。実際、そうしてしまうこともありました。
福岡で最初に通ったのは、福岡インターナショナル・チャーチ。
シート夫妻先生(ラリー先生とジューン先生)が牧会されていました。
西南学院大学ともつながりのある、とてもあたたかく、敬意を集めているお二人でした。
当時の私は、まだ「リベラル」という言葉に過剰に反応していて、西南のような大学を「ちょっと危ない」と感じていたのです。
そして、正直に言うと……よくシート夫妻先生と議論していました。
「聖書は神の霊感によって書かれたものであり、そのすべてを常に文字通りに解釈すべきです!」
そんなふうに熱弁していた私を、今振り返ると少し恥ずかしく思います。
でも、先生たちは決して嘲笑せず、いつも真剣に、そして優しく耳を傾けてくださいました。
そんなある日、礼拝の最中に、私の中で何かが変わりました。
説教ではありません。議論でもありません。歌でした。
歌の中に——ハーモニーの中に、会衆の空気の中に、そして神の臨在の中に——
私は、それまで頑なだった心の奥が静かにほぐれていくのを感じました。
その瞬間、私は議論をしていませんでした。正しさを主張していませんでした。
私は——ただ礼拝していたのです。
「誰が救われて、誰が救われていないのか」そんな思いはどこかに消えて、
ただ、この臨在が“すべての人のために”あると心の奥で感じていました。
神は、誰かを排除する方ではなく——誰もが招かれていることを本気で願っておられるのではないか?
そんな思いが芽生えたその瞬間、私はそれまで抱えていた多くの“答え”を手放し、
“畏れ”という贈り物を初めて受け取ったのかもしれません。