第4章 – 氷に走ったひび

いくつかの出来事が、静かに私の心を揺さぶり続けていました。

派手な瞬間ではありません。
静かで、時に戸惑いを伴う、でも無視できない瞬間の連なり。

高校時代のクロスカントリー部での友人が、目を輝かせて語ってくれた話を今でも覚えています。
「インドネシアでリバイバルが起きてるんだ!死人が甦って、奇跡がどんどん起きてる。イエス様の名によって!」

私は、うなずきながらも心の中では「……はいはい、ありがちだな」と冷ややかに構えていました。

けれど数年後、私はその“ムーブメント”の中心にいたメル・タリ本人に出会うことになります。
彼は私たちの教会に招かれてメッセージを語ってくれました。

その目——その静かな喜びと落ち着き。それは「つくりもの」には見えませんでした。
私はすぐには納得できませんでした。でも、「何か本物がある」と感じました。

また別の日には、私の両親が若い頃(ロンドン・バイブル・カレッジ時代)に親しかったご夫婦の話がありました。
夫は有名なアコーディオン奏者。奥さんはひどい関節炎に苦しみ、足の骨を何本も取り除く手術を受けていました。

ある日、彼女がキャサリン・クールマンのテレビ番組に出演しました。
ヒールを履いて立ち上がり、「癒されたんです!」と満面の笑みで語る姿。

番組を観た私たち家族は——喜ぶというよりも、戸惑っていました。
なぜなら、私たちの神学では、「そういう奇跡はもう“使徒の時代”で終わったはずだ」という前提があったからです。

そういう話が現れるたび、私は心の中で“どこかにしまって”きました。
否定もせず、完全に受け入れることもできず、ただ静かに胸の奥にしまい込んでいたのです。
けれど、その「しまいこんだものたち」が積み重なって、ついに重みになったのです。

私を押し潰す重みではありませんでした。
むしろ、私の足元の“氷”に、ひびを走らせる重みでした。

そして、初めてこう思いました:
「もしかすると、私がこれまで信じてきた“神のあり方”というものは、私の神学によって制限されていただけなのではないか?」