今でも不思議です。どの瞬間が決定的だったのか、はっきりとはわかりません。
雷のような衝撃でもなく、神学校の教室でもなく、それは——YouTubeの動画でした。
ある日、偶然目に入った動画がありました。
元プロテスタントの人々が、いかにして「ロザリオの祈り」に出会い、人生が変わったかを語っていたのです。
私は笑ってしまいました。
なぜなら私は、「ロザリオは非聖書的だ」「カトリックはマリア崇拝をしている」
「繰り返しの祈りは空疎だ」——そう教え、そう信じ、そう“教えてきた”側の人間だったからです。
でも、なぜか再生ボタンを押してみたのです。
腹が立つどころか、心が動いたのです。
そして数日後、私もロザリオを祈ってみました。
……といっても、涙があふれたというような劇的な瞬間があったわけではありません。
むしろ最初は、心の中でこう思っていました:
「これは本当に大丈夫なのだろうか?」
「私は罪を犯しているのでは?」
「これって“空疎な繰り返しの祈り”なんじゃないか?」
それでも、私は何週間にもわたって——誰にも言わず、こっそりとロザリオの祈りを自分の祈りの中に取り入れていきました。
すると、少しずつ、ある深い気づきが訪れました:
ロザリオは「マリアに近づける祈り」ではなかった。
マリアが、私を「御子イエスに近づけていた」のです。
その後、私は福岡の大名にあるカトリック教会の枝の主日(Palm Sunday)のミサに出席しました。
私は明らかに「初めての人」でした。
背の高い外国人——まわりはほとんどフィリピン人の信者たち。
係の方が近づいてきて、「あなた、これ持って、神父様の後ろを歩いてください」
「あの……初めてなんですけど」「大丈夫、大丈夫!」「私、カトリックじゃないと思うんですが……」「大丈夫ですよ!」
私は、葉の枝を手にして、行列の中に加わりました。
そのとき、歌が流れました。聞き覚えのある曲。
♪ The Lord is present in the sanctuary, let’s just praise the Lord ♪
ああ、これ知ってる……と思ったその瞬間、“意味”が、違って聞こえたのです。
これはたんに「雰囲気」や「象徴」ではない——
“本当に主がそこにおられる”という信仰の告白だったのです。
その瞬間、私は感じました。
「ああ……ここにも、私は“帰ってきた”のだ」