その後、私は福岡の正教会の礼拝に足を運ぶようになりました。
でも、その道の始まりは、ある人——兄のダン——の一言からでした。
私が「最近、カトリックのミサに出ているんだ」と言うと、
彼は静かにこう言いました:
「もしカトリックに惹かれてるなら、正教会も一度、見てみるといいかもね。」
それは押しつけではなく、静かに開かれた扉でした。
私はその扉を、すぐにはくぐりませんでした。
でもその言葉は、心に残りました。
それから何ヶ月も、私は正教会に関する動画を見たり、
カリストス・ウェア著『The Orthodox Way』を読んだりして過ごしました。
知識を深めるうちに、「学ぶこと」だけでなく、
“その中に立ってみたい”という思いが湧いてきたのです。
そして、私は福岡の正教会の門をくぐりました。
その瞬間、私はまるで「時間の外側」に足を踏み入れたように感じました。
ろうそく。聖歌。イコン。静寂。
それは、図書館の静けさではなく——
炎のともる洞窟のような、神秘的な静けさでした。
誰もパフォーマンスをしておらず、誰も何かを売り込んでいない。
誰も「あなたは救われてますか?」と尋ねてこない。
ただ、そこには“礼拝”がありました。
私はその場に立ちながら、涙をこらえ、
何か古くて美しいものが心に巻きつくのを感じていました。
あるイコンの前に立ったとき——それがキリストだったのか、
聖母マリアだったのか、両方だったのか——はっきりとは覚えていません。
でも、もっと深い問いが心に浮かんできました:
「これは“誰”なのか?」ではなく、
「これは“窓”なのか?」「この向こう側には誰が待っているのか?」
その瞬間、私は裁かれているのではなく、“見つめられている”と感じました。
まるで、長い間待っていてくれたかのように。
声が聞こえたわけではありません。
でも心の深いところで、こう囁かれているように感じました:
「もう頑張らなくていいんだよ。ここにいなさい。憐れみに語らせなさい。」
その夜、私は教会からの帰り道、月明かりの下を歩きながら、
何が起きたのか正確には説明できませんでした。
でも、「また戻ってくるだろうな」という確信がありました。
契約ではなく——ただの“YES”という返事。
正しさの証明でもなく——畏れと憐れみに導かれた、もう一つの“帰り道”でした。