『最後の罪人』を読み終えたとき、
私は「新しい神学に転向した」とは思いませんでした。
むしろ、内側の何かが静かにほどけていったのです。
長年の間、私は「神に見捨てられないように」「十分に信じるように」
どこかで頑張り続けていました。
でも本を読みながら、その必死さが、どこか悲しく思えたのです。
「神の愛は、そもそも“私の価値”に基づいていたのだろうか?」
そんな問いが浮かんだとき、私は静かにうなずいていました。
その気づきは慰め以上に衝撃でした。
私が信じてきた“神”の姿が、
実はキリストではなく、“自分に似た神”だったのかもしれない——
そんな思いが心を打ったのです。
やがて、「希望」という言葉の意味が変わってきました。
それは、楽観主義でも、可能性の願望でもありませんでした。
それは、すでに十字架の上で始まっている「救いの現実」そのものでした。
希望とは、「うまくいけばいいな」というものではなく、
「すでに注がれた愛が、やがて実を結ぶ」という信仰でした。
誰もが強制的にそれを受け入れるわけではない。
でも、誰一人として、その招きから除外されていない。
この希望は、私を傲慢にもしなければ、信仰を軽く見ることもありませんでした。
むしろ、私はひざまずきたくなりました。
「もし神が本当にここまで憐れみに満ちておられるなら——」
「私はもう一度、すべてを委ねたい」