私がたどり着いたのは、
「神が御子を怒りの対象として差し出した」という物語ではありませんでした。
むしろ、
「神が御子を送ったのは、すべての人を救い出すため」——それが本当の物語でした。
西方の伝統では、「罪の償い」や「神の正義の満足」が中心になることが多いかもしれません。
でも、正教会の教えはまったく異なります。
キリストは「父なる神の怒りを和らげるために死んだ」のではなく、
「死そのものを滅ぼし、地獄に囚われた者たちを救うために来られた」のです。
この気づきは、神のイメージを変えました。
神がより“優しく”なったわけではなく——
「本来の神の顔が、ようやく見えてきた」のです。
だから、私は議論することをやめました。
代わりに、祈るようになりました。
この福音は、勝ち誇るべきものではありませんでした。
ひざまずくべきものだったのです。